第3章 飛躍期 時代と環境への対応

昭和50年(1975)~平成9年(1997)

オイルショックに揺れる

第1次石油危機と狂乱物価は、高度経済成長の終わりを告げる出来事であった。また、昭和48年(1973)以降、各国は変動相場制へ移行したため、日本はそれまでの円安環境を失うこととなった。アジアの新興工業国が成長を遂げ、日本が比較優位を保っていた諸産業の衰退が起こり、産業構造の転換が進んだのもこの時期だった。
昭和48年(1973)、0PEC(石油輸出国機構)は石油公示価格70%以上の引上げを通告、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は石油減産を決めた。
この結果、石油の価格は1バーレル3ドルから12ドルへと4倍近く値上がりし、高度成長の時代から低成長の時代、消費節約の時代に入った。
塗料業界は、合成樹脂系に移行しており、石油関連の諸原料は重要な原材料となっていた。石油ショックによる原油不足の懸念から仮需要が発生し、価格が高騰したため、政府による価格指導が強化され、塗料業界もその影響下にあった。
このショックの沈静化とともに、需要は急速に低下し、塗料メーカーの経営を直撃した。

日本ペイントでは、対応策として販売網の整備、拡大をはかり、有力特約店を主体に地区別販売会社の設立を企図し、まず昭和48年(1973)12月に関東、近畿、中部、九州4地区にニッペ販売会社を設立。つづいて翌年四国、50年(1975)に中国及び北海道、52年(1977)東北地区にニッペ販売会社を設立し、8社販売体制を確立した。
これは、汎用塗料の販売体質強化、物流機構の改善・合理化、生産の効率化、地区責任制の確立などを狙いとし、塗料業界では初めての施策だった。特約店の理解と協力を得て共存共栄をはかるとともに、販売会社をベースとして販売網の充実、拡大を図ったのである。

売上高が落ち込む中、中島勉氏が取締役に就任

石油ショックによって物価が急上昇し、翌昭和49年(1974)には、実質経済成長率がマイナス0.5%と戦後初めてのマイナス成長となった。昭和50年(1975)2月には完全失業者数は100万人を突破。不況が深刻化していった。
長期にわたる不況の持続により、建設、自動車、電機など塗料関連産業が幅広い落ち込みを示し、期待の公共投資も景気を浮揚するほどの力もなく、依然として停滞のまま推移した。
昭和50年(1975)下半期の売上は前期割れの25億2025万円となり、営業の立て直しが急務となり、扱いメーカーも従来の日本ペイントを主軸に、藤倉化成壁塗料、サンアートなども拡販対象にすることを事業計画書に記載している。
こうした厳しい状況の中、この年、中島勉氏が取締役に就任した。中島利社長と相談の中で「売上を拡大するには拠点を全国に出店する。この精神を忘れるなよ」と一言あった。(参照:第52期営業報告書(昭和50年10月〜51年3月)

景気が好転する中、売上が100億円を突破

昭和59年(1984)、米国景気の回復などで輸出の好調、民間設備投資の伸びなどに支えられ、日本経済は回復基調に向かった。
こうした経済動向を反映し、当社は電力設備関連プラント、自動車用プラスチック塗料の増大、集合住宅戸建の塗り替え需要増により、売上86億6271万円(4億9868万円増)となった。(参照:第67期営業報告書(昭和59年))

  関東支店竣工式=昭和62年(1987)9月9日_2

中島利氏に勲四等瑞宝章=昭和62年(1987)

中島利氏に勲四等瑞宝章=昭和62年(1987)

中島利氏に勲四等瑞宝章=昭和62年(1987)_2昭和60年(1985)は、前半、輸出の伸展と設備投資の需要に支えられ緩やかな拡大過程をたどったものの、後半は貿易摩擦の激化と円高への移行による輸出の鈍化を主因に、景気は減速傾向を強めた。
こうした中、当社は自動車用カチオン電着塗料の増大、家電向けの塗装設備、本四連絡橋、戸建住宅の塗り替え需要などによって、売上が7億8242万円増(109%)の94億4514万円となった。
この年(昭和60年)会社設立30周年を迎えた。3人でスタートした社員は160人を超え、営業拠点は全国27店舗を数えるまでになっていた。経済環境は厳しかったが、記念式典を開き、さらなる飛躍を誓った。
この年、中島勉氏が常務取締役に就任し、竹内節夫、大本国人両氏とともに3人常務態勢となった。(参照:第68期(昭和60年)営業報告書)

厳しい経済環境のなか行った「創業30周年記念式典」のプログラム

昭和61年(1986)は、貿易摩擦の激化、急激な円高により、輸出関連産業を中心に不況感が深刻化し、景気は後退感を強めながら推移した。
塗料業界も自動車、鉄工、半導体など他業種にわたり打撃を受けた。売上も94億8098万円と前年比100.3%となり、目標の100億円に今一歩届かなかった。
こうした中、内需関連のリフォーム市場を開拓し、コンクリートの防蝕関連工事や、関東地区市場の拡大のために関東支店の事務所・倉庫の新築に着手し、翌年完成した。また、社員も増員し、基盤強化を図る方針を固めた。(参照:第69期営業報告書)

昭和62年(1987)は円高が進行する中、政府の内需拡大政策、個人消費の上昇で各企業も着実に好転した。(参照:第70期営業報告書(昭和62年)
塗料業界も厳しい予測のスタートだったが、住宅、建築をリード役に、自動車、電機関連の拡販によって、売上102億3785万円と前年比107.9%となり、ついに100億円を突破した。

塗料生産量が200万トンの大台を突破。

売上124億、社員数150人に
昭和63年(1988)、塗料の生産量が200万トンの大台を突破した。この時期から平成の初頭にかけて、磁器調仕上げや自然石調仕上げの塗材など、高意匠性塗料、塗材が注目を集めるようになってきた。また、バブル景気によるオフィスビルの建築ブームで、建築用塗料でもフッ素樹脂塗料が使われるようになった。
さらに、このころになると、塗料分野においても環境対策が重要視され、環境へ負荷をかけない塗料や環境破壊を防止する塗料が研究されるようになった。(参照:第71期営業報告書)
昭和63年(1988)は自動車関連の大型設備、電機関連、住宅リフォームなどが好調で、売上が前期比121.8%増の124億4834円になった。
日本ペイント製品を主軸に拡販に務め、また、西部はまゆう会の増強、福島・船橋・広島・九州地区の拡大を計画し、130億円の目標を掲げた。

設立40周年に向け本社ビル建設

本社ビルが竣工=平成2年(1990)

本社ビルが竣工=平成2年(1990)

昭和から平成へ、振り返ればバブル景気と呼ばれる経済状況の中、景気は拡大基調にあった。昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇が死去。皇太子・明仁が即位し、平成となった。
その年の4月1日に消費税(3%)がスタート。国民の負担感は高まり、またリクルート事件など政治不信が広がったこともあり、7月の参議院選挙では与野党が逆転するなど、政局は不安定となった。
こうしたなか、当社は平成2年(1990)、会社設立40周年を迎え、記念事業として本社ビルを建設した。また、本社だけでなく、関東、名古屋、大阪、広島、福岡地区の拡大と店舗網の整備拡大を計り、開発部員の増強も計画した。
この年の1月に発行された社内報に、中島利社長は次のような決意を述べている。

 

「10年単位でものを見るとき、方向性というか、会社のあり方がすーっと分かるような気がします。当社の場合、最初の10年間は拡大をいかにするか腐心しました。そして次の10年間は営業所の増設に邁進し、30年代には内容の充実を注力し、昨年はついに全国10万社中16132位にランクされるところまで充実することができました。そういうことで、私はこの40周年を大いなる節と考えるわけです。
40年目は他社に負けない活力ある体質作り、即ち設備の増改築と人材の育成に取り組みたいと思っている。
本社社屋の新築を手始めに、大阪支店、福山支店、堺営業所、水島営業所などの老朽化した社屋の増改築を実行したいと思います。また現在は非常に人手不足の時代です。これからも続くと思います。毎年10名程度の断層のない採用計画の実行、上位者による社内教育の実行などなど、全国的に力を蓄え次の拠点拡大に移りたいと思います。200億円売上、100万都市1億円売上、1人当たり1000万円売上……目標は示されています。」

設立40周年記念及び新社屋竣工記念祝賀会=平成2年(1990)設立40周年記念及び新社屋竣工記念祝賀会=平成2年(1990)_2

シンボルマーク 無限大の制定

平成2年(1990)4月、創業40周年を記念して新たなイメージのシンボルマークを制定した。従来のデザインイメージを残し、新しい時代への挑戦にふさわしく、全国ネットワークの結集による無限大の躍進を続けることをイメージしている。イメージカラーはナカシマグリーン。新鮮さと若々しさを表現している。

中島商会シンボルマーク

中島商会シンボルマーク