第2章 拡大期 高度経済成長と事業の拡大

昭和33年(1958)~昭和49年(1974)

塗料業界の飛躍的な拡大

昭和30年(1955)には、国内でも保守合同が実現するなど政治情勢の安定がみられ、また、経済面でも海外の好況を反映した造船そのほかの輸出ブームと豊作によって好調なスタートを切った。鉄鋼、石油化学など重厚長大産業が太平洋ベルト地帯に展開し、こうした産業によって供給された素材を用いた加工組立型産業が発展していった。そして、神武景気や岩戸景気などといわれた飛躍的な経済成長過程を経て、昭和39年(1964)には東京オリンピックを開催するまでになり、日本の国力を世界に示すにいたる。
こうした国民経済の拡大は、技術革新を軸とした活発な設備投資の進展と生活水準の向上にともなう個人消費の増大に支えられたものである。とくに昭和35年(1960)の池田内閣による国民所得倍増計画がこれに拍車をかけた。
塗料業界もこの高度成長の波に乗り、民需の市場発展に呼応して生産規模を拡大した。工場やビル、道路や橋梁などの建設がいたるところで進み、家庭電器、自動車など耐久消費財もブームのように広がり、それに合わせて塗料も大量に消費されるようになった。
一方、石炭から石油へのエネルギー革命と石油化学工業の勃興が、溶剤・合成樹脂などの塗装原材料の大量・安価な供給をもたらした。この時期、各種の合成樹脂等が開発されるのにともなって新しい塗料が研究・開発され、高性能の合成樹脂塗料を市場に供給するにいたった。塗料の主流は油性塗料から合成樹脂塗料に代わり、合成樹脂塗料時代を迎えたのである。

中島利社長が欧州視察

外国視察

外国視察

こうした日本経済の復活とそれに呼応した塗料業界の成長、そして国際化が進んだこともあり、海外への視察、研修なども徐々に行われるようになってきた。
昭和34年(1959)6月20日から、中島利社長は欧州塗料工業視察団の一員として渡欧。オランダ、西ドイツ、スイス、イギリス、ベルギー、フランス、イタリアの7カ国を視察した。(参照:第19期営業報告書)

危機 佐藤農具倒産の大打撃

好調に見えた日本経済も、昭和35年(1960)から少しずつかげりが見え始めた。金融引き締め等による商品の買控え、取引条件の悪化、倒産企業の続出など楽観を許さない状況に追い込まれた。
加えて、当社にも大きな衝撃が走った。得意先のひとつであった佐藤農具が倒産したのである。この倒産は、岡山の中小企業経営者にとって大打撃となった。
この影響で手形サイドの長期化は慢性症状となり、回収の困難さと相まって資金繰りは悪化の一途をたどり、「全くのお手上げ状態」となってしまった。
ただ、こうした逆風のなかでも、第24期(昭和36年10月1日~37年3月31日)の売上は待望の通期2億1000万円と前期比1300万円の増加、また純利益は佐藤農具をはじめとした不良債権の一掃などにより、前期比340万円減の1000万円となった。
(参照:第24期営業報告書(昭和36年10月1日〜37年3月31日)

中島ビルが完成

こうして、昭和36年(1961)の下半期(10月~37年3月)は、純利益で創業以来最高の数字を記録し、岡山の業績は順調に伸展した。
この勢いに乗って、岡山市下石井112番地の敷地63.59坪の土地に、商品倉庫を含む中島ビル建設を計画、3月20日に地鎮祭をとり行い、9月26日に完成、本社事務所もこの新しいビルに移転した。そして、12月3日には竣工祝賀会を開催した。このビルの完成により、売上の増加に寄与すると大きな期待を寄せたことは間違いない。
また、昭和36年(1961)11月27日には、福山市西町707番地に福山出張所を新設した。さらに姫路営業所においても、拡大する播磨工業地帯の需要増に対処するために、姫路市船丘町に25.83坪の土地を購入し危険物倉庫を建設する。
この期には日本ペイントの切なる要望に応え、待望の大阪営業所を新設することを決定。翌年の5月5日の開店を目指し、諸々の準備を整えた。
しかし、昭和37年(1962)に入ると、景気は一転して不況の様相を深め、業績も売上が前年を下回った。取引条件の悪化に加え、手形期日の長期化など資金繰りは悪化の一途をたどることになった。
この難局に対処すべく事務部門の合理化を図り、9月22日にナショナルの160式卓上簿記会計機を導入し、10月1日から稼働した。
現在会長を務める中島勉が中島商会に入社したのがこの年だった。

【証言】中島勉会長 急成長の秘密を語る……

中島勉会長

中島勉会長

――これほど急速に売上を伸ばすことができた理由は何でしょう?
中島勉会長:創業間もないころは、薄利多売でいくしかなかった。とにかく拠点を増やす、全国で50店くらいは出せそうということだった。山口県岩国市にある柏原塗研工業(現・カシワバラコーポレーション)が備蓄関係の塗装で全国展開していたが、両方の社長の仲が良くて、柏原の社長が「うちが店を出すからお前もついてこいよ。その代わり塗料はお前の所で買うから」ということで店を全国に出していき、そこを起点として汎用塗料に力を入れていった。
――柏原塗研工業は主に工場やコンビナート関係のタンクの塗装をする会社、塗料が必要なので一緒にやろうとなったのですね。
中島勉会長:一番大きかったのが、鹿児島県の志布志だったかな、10万キロのタンクを1回に18基くらいやる。それをほとんどうちから入れて。そのために鹿児島の出張所を作りました。タンクを塗るのも日中は暑いから、午前中は西から塗って、午後からは東側を塗ってというふうにして大変な作業でした。
――車も住宅メーカーも、その後大きく伸びていく会社とともに、中島商会も発展して行ったのでしょう。
中島勉会長:やはり「多店舗展開」ということに目を付けたのが良かったんだと思います。大和ハウスにしてもマツダにしてもそう。それにともなって、日本ペイントも力を入れてくれましたし。
多店舗展開→人が増える→売上が上がる。そうなるとメーカー側も力を入れるようになる。商品の売買では薄利多売になるかもしれないけれど、後で手数料という形で入るから、やはり日本ペイントの商品を売っておれば大丈夫ということだろうね。

堺営業所=昭和40年(1965)

堺営業所=昭和40年(1965年)

堺営業所=昭和40年(1965)_2

下期3億突破! 売上・利益とも最高

アジアで初めてのオリンピックを翌年に控え、昭和38年(1963)から39年(1964)前半にかけて、工業生産の拡大、消費需要の好調の一方、企業収益の低下、国際収支の悪化と金融引き締めの強化など、日本経済は微妙な局面のうちに推移した。
こうした経済情勢のなか、当社は販路の開拓に努力し、昭和38年度の下期は、売上高は前期を17%上回る3億1300万円、利益(税引き)は1287万円を計上。売上・利益とも従来の最高を更新した。
さらに広島市大州町6-375番地に広島支店事務所の建設工事に着手し、昭和35年(1960)広島支店大洲倉庫を開設した。
昭和37年(1962)に事実上移転していた本社を、この時期、岡山市上石井28番地から岡山市下石井112番地に移転登記した(住居表示に関する法律の規定に基づき岡山市下石井112番地は現在、岡山市錦町5番11~101号)。

急速に進めた営業エリアの拡大

1967(昭和42)年入社式

1967(昭和42)年入社式

中島勉会長の証言にもあるように、日本の高度経済成長を背景に、当社は営業エリアを拡大することで業績を伸ばし続けていった。
昭和39年(1964)から40年(1965)にかけて、それまでの広島、大阪だけでなく、山陰や関西一円、そして関東圏へも営業拠点を着実に広げていった。
昭和39年(1964)4月4日、米子営業所の新事務所建設工事に着手。7月30日に工事が完了し、8月21日に移転した。同年5月7日には大東市に大東営業所を開設。昭和40年(1965)12月11日、大東営業所祝賀式を挙行した。

 

さらに堺市出島海岸通り4丁目289番地の2に宅地110坪を購入し、昭和40年(1965)3月に営業所建設工事に着手、同年8月に堺営業所を開設した。また、同年12月10日、横浜市神奈川区西神奈川1丁目14番地に横浜営業所を開設した。
(参照:第29期営業報告書(昭和39年4月1日〜9月30日)

 

売上年間10億円超え、東京営業所の開設

昭和40年(1965)秋から5年間のいざなぎ景気を通じ、わが国は本格的な高度経済成長をとげて、いわゆる「経済大国」となり、そのGNP(国民総生産)も43年(1968)には自由諸国において米国に次ぐ第2位を占めるにいたった。
塗料工業においては昭和40年代に入って需要の上昇率はやや鈍り、年平均伸び率は11%となり、30年代の16%に比べかなり低下した。それは塗料および塗装技術の進歩によって塗料の塗装効率が著しく向上し、ユーザーへの塗料消費原単価が低下したことも大きな要因であると見られる。
一方、塗装技術の進歩も著しく、20年代前半までの伝統的な技法から脱皮し、それ以後は高速大量処理を行う工業塗装が成立、発展した。このため、塗料技術は塗料と塗装プロセスを総合的にとらえて、最小コストで最大効率の塗膜機能を発揮することが求められ、また新規塗料の研究は塗装工程の合理化の方向に向けられた。(参照:「明日を彩る」125p)
こうした日本の好景気、経済成長に支えられ、営業エリアの拡大が着実に進むなか、当社の規模も急成長していった。昭和41年(1966)に入り、従業員

姫路営業所

姫路営業所

数も増加。前期より27人増となり、ついに100人を超え、102人(男子75人、女子27人)となった。平均年齢23.6歳、平均勤続年数2.8年の若い伸び盛りの会社となった。

また、昭和41年(1966)以降も営業拠点の拡大は続き、昭和41年12月には福山出張所、同年11月には千葉出張所、同じく姫路営業所、昭和44年(1969)12月には千葉営業所を開設した。翌45年(1970)2月には水島営業所の建設に着手している。
一方、昭和42年(1967)11月20日には、姫路営業所調色工場が完成した。

旺盛な個人消費、根強い設備投資及び国際収支の好調に支えられ、引き続き活況を呈した日本経済。いわゆる高度経済成長の真っ只中で、当社は急激な成長を遂げていった。
昭和44年(1969)4月11日には、東京都板橋区赤塚新町2丁目7番16号に東京営業所を開設し、関東・首都圏での営業エリア拡大に着手した。

中島商会・中島産業=昭和40年(1965)

中島商会・中島産業=昭和40年(1965)

入社式=昭和43年(1968)

入社式=昭和43年(1968)

 

 

 

 

 

 

 

創立20周年記念式典=昭和45年(1970)

創立20周年記念式典=昭和45年(1970)

創立20周年記念式典=昭和45年(1970)2

創立20周年記念式典=昭和45年(1970)2

 

 

 

 

 

 

 

こうした勢いのなか、昭和41年(1966)には年間売上で前年の8億4600万円から一気に11億3000万円へと10億円を突破した。さらにそのわずか3年後の昭和44年(1969)前期は、売上髙が前期比1億3700万円増の10億1300万円を達成。下期も10億7000万円と10億円を超え、通年で20億円をクリアした。
まさに破竹の勢い、絶好調のなか、昭和45年(1970)、当社は創立20周年を迎えた。(参照:第39期営業報告書(昭和44年4月〜9月30日)

創立20周年記念式典

創立20周年を迎え、「株式会社中島商会創立20周年記念式典」と「創立20周年記念謝恩パーティー」を盛大に行った。
記念式典は4月26日岡山市民会館(岡山市北区丸の内)を会場に、加藤武徳知事(当時)をはじめ県内外から多数の要人、関係者が来賓として出席。塗料の総合商社・中島商会の名を県内外に広く知ってもらう機会となった。
また、記念式典では、タレントや芸人を何組も招き出席者を楽しませ、創業以来奮闘してきた社員とその家族たちを慰労することとなった。

社員に配られた創立20周年記念のアルバム

社員に配られた創立20周年記念のアルバム

 

記念式典ではタレントや芸人が参加者を楽しませた

関東地区へ拡販大作戦

1970年代に入り、好調だった日本経済に少しずつかげりが見えてきて、停滞の色が濃くなってきた。しかし、当社はまずまずの営業成績をあげていた。
昭和45年(1970)10月から市場性のある関東地区拡販大作戦を行い、東京営業所に社員15人を投入し、利益率の高い粉体塗料、カベックス縄文を主商品として拡販するべく、新規開拓の布石を打つことに成功した。

さらに同年12月1日には福岡営業所(福岡市港2-4-20)、四国出張所(香川県三豊郡三野町大見1617)、大宮出張所(大宮市仲町2-75)を開設した。四国出張所は大和ハウス四国の場内にあった。
参照:第42期営業報告書(昭和45年10月〜46年3月31日)

ガソリンスタンドの経営へ

ガソリンスタンドの経営にも乗り出す=昭和45(1970)

ガソリンスタンドの経営にも乗り出す=昭和45(1970)

設立から20周年の昭和45年(1970)、塗料の販売、マツダ自動車の販売に加え、当社は新たな事業に着手した。ガソリンスタンドの経営である。
この年の6月1日に、岡山県内3カ所にガソリンスタンドを開設した。鉱油部岡山給油所(岡山市野田)、倉敷給油所(倉敷市大島)、笠岡給油所(笠岡市笠岡)である。