第1章 創業期 創業と基盤・組織の確立

昭和22年(1947)~昭和32年(1957)

復興への道

昭和25(1950)年、創業時の中島利社長

昭和25(1950)年、創業時の中島利社長

終戦後、日本に進駐した連合軍は、政治、経済、社会などあらゆる分野で非軍事化、民主化のための占領政策を展開した。焼け跡の町には失業者があふれ、食糧・物資不足と物価の高騰で人々の暮らしは窮乏を極めていた。

昭和22年(1947)、岡山駅に降り立った利は、目前に広がる光景に呆然とした。一面の焼け野原。駅周辺はもちろん、岡山一の繁華街・表町一帯も跡形もない。徐々に復興は進んでいたとはいうものの、戦前の面影は微塵もなかった。敗戦の現実に心は折れそうになった。

しかし、廃墟だった町にもやがて人は集まり、家が建てられ、少しずつ賑わいが戻ってくる。

「そうだ、これから建築資材が必要になる。塗料だっている……」

出征前に培った塗料の知識、人間関係が生かせる。塗料販売の仕事をもう一度やろう。利は、塗料を扱う中島商会の看板を掲げた。昭和22年(1947)の5月のことである。

 

 

戦後の塗料業界

利が創業を決意した戦後の塗料業界は、どのような状況だったのだろうか。

塗料工業にきざまれた戦争のつめ痕は深く大きいものだった。戦時中の企業整備や日本各都市への空襲などによって、多くの塗料工場が失われ、敗戦後に残っていたのはわずか60工場といわれ、その年間生産能力は11万1240トンだった。これが再出発する塗料業界の姿であった。昭和17年(1942)末に比べた残存率は工場数15%、生産能力49%にすぎなかったという。

ところが、昭和20年(1945)の9月になると、思いがけない塗料需要が生まれた。戦後処理のために駐留したアメリカ軍を中心とする進駐軍の兵舎や住宅などの塗装工事が必要になったのである。9月から10月には、とりあえず各地から塗料の在庫品がかき集められたが、それで足りるはずもなかったという。また、当時はすべて進駐軍優先のため、復興工事など民需に対しては塗料の供給ができなくなった。

塗料業界が他工業よりもいち早く復興に向かって歩み出したのは、進駐軍が国産塗料を国内業者に塗装させたのが大きな要因であるという。またこのことは、あらゆる素材の保護と美化など塗料の機能を日本人に再認識させ、塗料工業を発展に導く契機にもなった。大戦中に日本の塗料業界を破壊した連合軍が、戦後その再建を促進することになったのは、歴史の皮肉というべきなのかもしれない。

昭和21年(1946)になると、塗料需要はさらに増大した。進駐軍用だけでも必要とされる塗料は3万トンにのぼったが、上半期の油脂割当て量は1000トン余に過ぎなかった。このような極度の品薄を反映した完全な売り手市場にあって、需要者サイドは高品質製品や必要数量を確保するには、いわゆるヤミ物資(とくに高価な統制違反品)を購入するしか方法がなく、当時はつくりさえすれば飛ぶように売れる状態にあったので、塗料製造業に新規参入する者があいついだという。

「(政府は)昭和22年11月に塗料製造用指定生産資材割当基準を告示した。この新方針は、需要家が適当と認めた塗料メーカーを選択することを主眼とし、需要家に交付された割当証明書(いわゆるクーポン)を入手しなければ塗料メーカーは次期の原材料割当をうけることができなくなった」

さらに「政府の割当補助機関であった日本塗料協会は23年3月に閉鎖され、同年4月に日本塗料工業会が発足した。それは多年の国家権力による団体運営から、民主的な塗料製造業者自身による団体運営への転換であり、自由経済をめざす門出でもある」(註)

こうした時代の動きを敏感にキャッチしたことが、利の塗料販売会社設立の背景にあったものと推測される。

註:「明日を彩る—関西ペイント六十年のあゆみ」

本社を下石井に、資本金100万円でのスタート

売り手市場の塗料業界だったため、創業した当初は、大阪まで塗料の仕入れに行き、買って帰ると、すぐ売れて現金が入ってきたという。

最初は法人にする考えはなく、12月に事務所で金庫から金を出して儲けた1年分の決算をしているところに、税務署員が入ってきて、「随分もうかっているようだな」と言われた。

「税金に全部持って行かれたら商売ができなくなるから、それだけは置いておいてくれ」と頼んだのだと、中島勉会長は、利から当時のことを笑い話として聞かされたという。

このことが、法人化するきっかけとなった。中島商会が法人組織になったのは、昭和25年(1950)4月。利の祖父や父親、叔父(祖父の兄弟)などが株主になって、法人組織としたのである。

本社を岡山市下石井におき、資本金は100万円でのスタートだった。

中島勉(現会長)は、戦後10年くらいを経過して岡山に来たが、そのころの岡山はまだ焼け野原だった記憶が残っているという。

利は、その前に広島市の袋町に30坪程度の土地を買い入れていた。そして、その後岡山市大和町(元憲兵が住んでいた地域だったという)で1区画60坪ほどの土地3区画を買った。当時(70年前)全部で600万円程度だったらしい。そのうちの1軒に利社長が住み、あとの2軒には従業員を住まわせた。岡山に知人がいるわけでもないから、従業員は利の田舎である島根県益田から連れてきた。そうして会社がスタートした。

増大する塗料需要

昭和25年(1950)6月、東西両陣営の接点である朝鮮半島の北緯38度線で戦火が燃え上がり、朝鮮動乱となった。日本から出撃する米軍を主力とした国連軍は、装備の補給、修理などを緊急調達して大量の特需をもたらし、予期しない本格的な産業復興のきっかけとなった。

昭和26年(1951)には米国の対日援助が打ち切られたが、もはや日本は経済自立化への道をたしかな足どりで歩み始めたのである。

塗料業界も、補給用物資の増産や基地の拡張、兵舎の増築によって需要が拡大され、思いがけないブームに湧いた。その結果、「25年度の全国塗料生産量は6万9700トンの計画を2割も上回る8万4500トンの実績をあげ、前年度の実績3万8800トンから一挙に倍増以上の急伸を示した。

すでに昭和24(1949)年には、対日援助資金であまに油など大量の原料が輸入され、塗料生産も活発化しており、油性塗料の価格統制が25(1950)年3月に、生産・配給統制が4月にそれぞれ解除された。こうして塗料業界は、昭和4年以来約20年間におよぶ経済統制から解放され、完全な自由経済に復帰した」(出処)のである。

昭和25年(1950)から塗料生産高は拡大をつづけ、昭和24年度の3万8768トンから29年度には13万3352トンへと大幅な伸びをみせた。5年間でおよそ3倍半にまで達した。「それは、基調として20年代前半とは様変わりに改善された国内外の新たな状況が支えとなり、塗料各社も意欲的に設備投資を進めた結果であった」

昭和28年(1953)度には、朝鮮休戦協定が成立して特需景気も下降に向かったにもかかわらず、全国の塗料生産高は戦前最高の10万3100トンを突破して12万8058トンと急上昇した。その対前年伸び率は36%に達し、25年度の18%の2倍という急カーブを描いている。これは、財政支出や設備投資の増加、さらに住宅建設、ラジオ、ミシン、自動車、スクーターの増産などによる活発な塗料需要に応えて、塗料生産設備の近代化、拡充が行われたからである。

製・販・装の業界3団体で構成する塗料普及会の主催で、昭和28年(1953)5月17日から1週間を「塗料100年祭」として、塗料の普及行事を業界をあげて大々的に展開した。これは初めて様式塗装をしたといわれる安政元年(1854)からちょうど100年になるのを記念し、この1世紀で目覚ましく成長した日本の塗料業界を国民に周知させ、いっそう発展をはかるのが目的であったといわれている。(参照「明日を彩る」98p)

激化する販売競争の中へ

創業時の広島営業所=昭和28年(1953)

創業時の広島営業所=昭和28年(1953)

当社の第2期(昭和25年1月~3月31日)の営業報告書によると、売上収入は625万819円、支出は510万円で、利益は110万3984円となっている。 資本金100万円、本社を岡山市下石井においての法人としての再スタートだった。

この年(昭和25年)は、12月15日にペイントの価格統制全国撤廃があり、これを契機に品質の向上、価格の高騰につながった。一般には、良質製品の入手が可能になり、活気を呈するようになった(よく売れるようになった)。

岡山での会社の設立から間もなく、利は広島支店を広島市袋町に設立した。弟で三男の秋男が広島にいたからである。ただ、広島支店は苦戦を強いられたと営業報告書には記載されている。

変則的だったとはいえ、日本ペイント代理店は中島商会のほかに京野商会と弘中商事が支店を併設し、また関西ペイント代理店が雨後の竹の子のように出現し、激烈な競争が行われた。ときには利益を無視した得意先の獲得競争が起こり、当社もその流れに巻き込まれ、計画通りの成績を収めることができなかった。

手元に残っている決算書でもっとも古いものが、昭和25年(1950)上期(4月1日~9月30日)の記録である。

それによると、商品売買益189万6693円、雑収入2万8721円。合計の当期総益金は192万5414円。営業費など経費合計が151万2512円で、差し引き純益は41万2701円とある。

さらに、昭和25年(1950)下期営業報告書によると、「当期のなかば12月15日にペイント価格統制の全面的徴廃となり、之を契機として品質の改良向上と共に価格高騰を招来致しましたが一般には待望の良質製品を入手できることとなり寧ろ活気を呈した様に思われます」とある。

昭和24年から25年にかけての塗料の生産・配給・価格の統制撤廃は、業界にとっては待望していた自由経済の回復であると同時に、激烈な販売競争への突入を意味していた。おそらく各塗料メーカーは、特約店、代理店化の連携を強化、緊密化を図り、販促活動、広告・宣伝などに力を入れていったのではないだろうか。

創業間もないころ=昭和25年(1950)

創業間もないころ=昭和25年(1950)

翌昭和26年(1951)5月20日に開かれた株主総会の営業報告書は、昭和25年10月1日~昭和26年3月31日までの数字が記されている。この報告書は、それまでの手書きのものからタイプ打ちされている。

損益計算書では、収入の部が、商品売買益600万7877円、工費14万3642円などの合計が623万819円。支出の部が、営業費331万1281円、販売費139万5786円などで、当期純利益110万5984円という好成績を残している。

自動車販売部門を設立

創業時=昭和28年(1953)

創業時=昭和28年(1953)

中島商会の一つの柱として自動車部を設けたのは昭和25年(1950)のことである。利社長自身、自動車が好きだったということもあり、「これからは自動車が流行するだろう」との判断で始めた事業だった。自動車部設立当初は、ラビットスクーター(富士重工業)の代理店として、スクーターの販売を行った。

中島勉現会長は、次のように回想する。

「そうこうしていると、東洋工業(現マツダ)が車を作るようになって、販売のために各県に代理店を設けることになった。岡山はどうするかということになり、中島商会の自動車部でやってくれないかという話になった。その背景には、日本ペイントと東洋工業の社長が話をして、『もし代理店を受けてくれたら、マツダで扱う塗料は中島商会から入れるから』という約束があったのだ。それが今日まで続いているわけなのです」

創業者中島利社長=昭和28年(1953)

創業者中島利社長=昭和28年(1953)

昭和28年(1953)8月には、販売店を法人にしなければならないことになり、独立して岡山マツダ自動車株式会社となった。国内で自動車が普及し始めたころである。

本社を上石井に移転

米子営業所開設=昭和35年(1960)

米子営業所開設=昭和35年(1960)

昭和20年代の復興過程を経て戦前水準に回復したわが国の経済は、昭和30年代に入ると、新たな飛躍を遂げることになる。

産業界の活況を反映し、塗料需要は年々拡大をつづけ、全国塗料生産高も、昭和30年代には平均年間16%の急伸を示し、30年(1955)度の全国生産高15万4000トンを基準とすると、39年(1964)度の指数は373となり、その発展はまことにめざましいものがあった。

こうした戦後の復興と日本経済の好調、それに呼応した塗料業界の急成長を背景に、中島商会は順調に規模を拡大していった。この時期、製造元の日本ペイント株式会社は戦後最高の販売高を示し、また当社の大口需要先である東洋工業株式会社も他社銘柄をしのぐ生産・販売を記録した。

設立当初100万円だった資本金は、昭和31年(1956)には400万円に増資。同年10月15日には本社を岡山市上石井28番地に移転した。

第14期(昭和31年〔1956〕)下半期の業績は、売上高1億5149万9126円(前年比1億、営業利益45万5375万円……。順調に業績を伸ばしていった。 こうした勢いに乗って、昭和33年(1958)には姫路営業所、35年(1960)には米子営業所を開設した。