今だから話せる! 飛躍の半世紀を支えた 〈三人の侍〉たち

【座談会出席者】
OB : 松本、川西、山下
中島勉会長 中島範久副会長 中島弘晶社長
社史編集スタッフ
進行役 永谷栄志

出席者

 

松本 勝 昭和34年(1959)年入社。広島支店、福山営業所長から本社営業部長、常務取締役を歴任し、2011年退職

川西 武統 昭和49年(1974)入社。広島支店、営業本部長、(株)NNC副社長、メキシコ工場設立などを担当し、2015年退職

山下 義隆 昭和51年(1976)入社。福山営業所、福山支店長から本社開発部長。常務取締役を最後に2018年3月退職

――今日はOBの方3人に来ていただいて、いろんな事を話しながら、振り返りをしていく時間にさせていただければと思っています。

支店の3階に寝泊まりしながら

松本:私の入社当時(昭和34年)、マツダは「東洋工業」が社名でしたが丁度元気を出し始めた頃でしたね。ご存知360ccツイン気筒のクーペ(二人乗り軽)生産が始まっていた頃でした。 トラック生産から始めて乗用車生産R360クーぺ、後にキャロル(4気筒)が生産され名前もユニークで発売当初から大ヒットしましたね。生産も従来のトラック含め大幅UPし、支店売上げも自動車、汎用塗料含め多忙な時期だったと思いますね。 当然、東洋工業塗料窓口は中島一社、支店月間売上げも入社数年後瞬間ですが、一億達成の索引になった要因であり、大変懐かしく活気有る時代でした。

山下:確かに広島支店は「中島学校」みたいに感じが当時ありましたね。20人くらいの社員が当時でもいましたから。

松本:そうですね。中島学校と云われていましたね。私の在籍時も全国展開に向け広島から6~8人出られたと思いますね。それ以上かも。 入社当時は大勢の人でした。中島秋男支店長だった広島支店、袋町(中心街に近い)に入社しました。支店は3階建で1階事務所、2階支店長住居、一部社員寮、3階社員寮で4~5人から後に7~8人の大勢でしたね。大本さん(常務営業本部長)が後に入社され一時我々と寮生活でしたね。真面目そうな人でインテリっぽく見えましたが、後々時間外教育も受け楽しい人だと安堵しましたね。 寮には益田出身で学校の先輩もおられ、仕事、生活、何一つ不安も無く、休日には先輩と近く商店街のパチンコ屋に誘われ側で見ていました。私はお金も無く先輩の付き合いが休日の時間つぶしでしたね。 支店長の奥さんは、我々食事のお世話で大変だったと思いますね。子供さんもお二人おられましたから、 感謝、感謝ですね。 支店にはベテラン先輩、文屋、金谷さん他15~16人の大勢のメンバーで大変活気がありました。先輩に厳しい人も居られ、鍛えられたのも良い思い出になっています。 当事、東洋工業近くに(今の支店)準備中の倉庫仮事務所に日々宿舎から通っていましたが、早々に4階建て事務所兼宿舎及び倉庫が完成、新広島支店がスタートしました。当事としては他社に無い立派な設備だったと思いますね。 数年後、社員も20数人に増え、支店長も中島秋男さんから大本さんに、朝会が毎月曜日、早朝7時から一時間がスタート、一週間の活動報告等、計画、反省の場でした。 大本さんからの厳しい指導も、ぶすぶす言いながら、私もだったんですがね。 眠たい時間、パンを食べながら頑張りましたね。若い人も大勢で、懐かしい青春時代でした。

中島勉会長:昔は寮がなかったら人が来てくれなかった。そんなに借家があるわけじゃないし。広島(支店)は上が寮だったし、福山もそうだろう。今の横浜のそうだろう。堺も千葉もそう。松江もそう。全部2階は寮にしていた。

松本:当時の企業は、宿舎が会社の一部にあるというのは普通だったんですね。

山下:私が入社したのは昭和51(1976)年で、中国日ペ(日本ペイント)が発足した年。石油ショックのすぐ後のころです。就職難の時で就職先がなかなか見つからなかったんですが、たまたま松山商大の就職課の掲示板に中島商会からの募集が出ているのを見つけたんです。私の出身地の岡山の会社でしたので、これは是非行ってみたいと思いすぐに岡山に行き会社訪問をした訳です。 当時は佐々木恭精(元常務)さんが人事部の係長で、松岡左博さんが課長だったんですが、その方々に面接してもらい、1週間後くらいに採用通知を受け取りました。その時は採用が結構多くて20人以上おり入社式も盛大なものでした。 当初は制服もなく、てっきり背広で会社に行けばいいと思っていたのに、皆さん作業服で仕事をされていたので、急いで作業服を買ったというような記憶があります。 吉原さんが新しく所長になられて、新規にいろいろと拡大していこうという中で、府中家具の木工塗料を開拓しようということになりました。当時、府中というのは家具の産地で、全盛期の一番いい時ではなかったかと思います。 大阪塗料(株)とタイアップをして始めたわけですが、そのうちにユニオンペイントとか和信化学とか、そういうメーカーも取り扱うようになりました。毎日府中に通いました。そうしているうちに売上も伸びてきて、3年くらい経ったときに森岡君を採用して、彼に府中を任せました。 私は福山市内の営業をしろということで、福山市内の工業用塗料のユーザー開拓をしようと、産業機械(「サンキ」(産機)と言っていた)の塗料販売を始めました。その時にテラルさんとかホーコスさんといった福山で優良企業といわれる工業用ユーザーとの取引を開始し拡大することができました。当初私が取り組んだ、府中の家具メーカーに対しては、言わば二流メーカーを扱っていたのでクレームも多く発生したんです。高級家具に塗装したウレタン塗料が1年弱で白化し100万円のクレーム補償を要求された事もありました。でも工業用ユーザーに対しては日本ペイントの商品を売ってみて、そういうクレームもないし、やはり一流メーカーのものは違うなという印象を持ちました。

松本 勝氏

松本:僕は福岡勤務から福山へ帰るということになり、その当時は山下君が活躍していたのを覚えています。それ以前に福山は僕が店舗長(支店長)だった頃、非常に苦しい時代が何年かありました。その当時の客層と、福岡から福山に戻ってきたときの客層がころっと変わっていたんです。特に変化が大かったのが、府中の木工を中島商会が始めたということです。

――「開発」というのは、どの時期からいつまであったんですか。

中島勉会長:1985年から、僕は新規開発で東京担当だったので全然させてもらえなかった。それでも、やりましたよ。

松本:確かにそういう時がありました。

山下:もう一つ本社で思い出があるのは、TSC(テクニカルサポートセンター)という部署を作ってもいいと当時の中島弘晶専務から許可をもらい新しい仕事を始めためたことです。マンションの改修工事を手掛けていこうという事で500万くらいする赤外線カメラとか、コンクリート強度の測定をする機械とか、いろいろな診断装置の機械を一式1,000万円くらい掛けて購入していただきました。 つまり、マンションの劣化診断をやろうというものです。劣化診断をやって、それを糸口に診断した結果を報告して、「修繕する必要がありますよ」ということでのマンションの大規模修繕工事の受注をしていこうということでした。 第1号は姫路のマンションだったと思いますが、中島商会が元受けで受注しました。10棟以上はマンションの改修工事を請けてやったと思います。 その中でも一番記憶に残っているのは、山田部長(当時の堺営業所・所長)が関係している武庫川のプルミエールⅡというマンションなんですが、あれば1億円くらいで一番規模が大きかったですね。あれは私が責任者ということでやらせてもらいました。福山の塗装会社に以前勤務されていた方に現場代理としてついてもらって、一応順調に仕事はできて、お金の方も回収できて、あれは成功した事例です。一番の思い出に残っている工事です。

――そのなごりが今の設計室だと思っていいんですかね。

山下:私が転勤して中村工業に出向で行って、その後を小山君がやりました。結局小山君も東京に行って、帰って来て設計室が出来たんですかね。

――皆さんが独自でやられていた部分というのは開発の部分ですよね。どういうことをされていたのでしょうか。エターナルを自社ブランド化されたのが山下さんだといのは、私も聞いていますが。

山下:基本的にあるのは、新しいユーザーづくりということかな。中島商会の財産となるべく「ユーザーづくり」するのがとにかく営業の仕事だというのが根本的な考えです。

山下:商品開発というか、新たな扱い商品をいかに増やしていくか。お客さんはどんどん増やしていくと同時に、取扱商品も増やしていく。仕入れ窓口の開拓をしていくことが、ひいてはお客さんの客層を広げることになるので、いろいろな展示会などにもどんどん行って、商品を仕入れてくる。そして新たな商売をしていくという、そういうことで展示会にはかなり行きました。

松本:僕は山下君の今までの状況を見ていたので、「開発」ということで中島会長が号令を掛けられて、一生懸命に根気強く頑張ったなと。私は昔から社員に、「自分の恋人をゲットする気持ちで、一生懸命にやれ。そのくらいしないと、優良企業とは取り引きはさせてもらえないよ」とよく言っていました。

中島勉会長:ホシザキ電機だってそういったことだった。名古屋が本社だが、山陰(島根)の木次とかに工場がある。それで僕は合銀(山陰合同銀行)にお願いして、総務部長を紹介してもらい訪ねた。すると、「いまの塗料で特に問題はないので、また何かあったら中島さんとお付き合いしますけれども、今回はそういうことでお聞きだけしておきましょう」と。それで帰る時に、「すみません、御社の製品一覧をいただけますか。ここの商品はどこで売っておられるんですか? ホシザキさんが作ってホシザキさんが販売されているんですか?」と聞いたら、「ホシザキは家電中国というのがある。そこは24時間体制でやっている」と言う。 それで僕の頭に浮かんだのは、ホシザキの商品をどうにかして売ろうと思い、まず大和ハウスにお願いした。それで業務用の冷凍のものを入れるでしょう。それで「中島商会が言ってきたから、今回は御社にお願いします」とホシザキに言って貰うわけよ。 飲み屋に行っても、業務用の冷凍庫がいる。だから、僕らは飲み屋に行ったら、まず、冷蔵庫のマークを見つけ、ホシザキと縁をつなげられるかどうかを話する。ホシザキといったら、世界のホシザキだからね。すると1年半くらいして、ホシザキから来てくれと言われた。「中島さん、おたくは大したもんや」「どうしてですか」「うちの商品があれだけ売れるのは、おたくのおかげだ」と。 JFE鋼板もそう。僕が一番に行った時は、シェアは10%もなかった。それをどうしてやれたかといったら、まず人脈、人付き合いをはじめなきゃいけない。定期訪問して担当者の所に行って、名刺を置く。「これを上司の方に渡して下さい」と二枚置く。それから、そこで作っているのは鋼板の屋根。これを売って上げればいいんだということで、僕が販売会議で「とにかく従業員一人が5件ずつスレート屋根の会社を出しなさい」と。もうそろそろ屋根のふき替えをしないといけないなというスレート屋根の会社を、合計で2,500件出した。リストを作り、商品カタログを向こうからその会社に送った。こういうことをしているので、とにかく一度だけ話をさせて欲しいと。そうしたら、「来てください」というところもあったので、行って見積もりをする。JFEの中では、「中島商会は紹介してうちの材料を売ってくれるので、日本一だ」となり、現在ではトップなっている。それで社長とも長い付き合いになる。

――開発の話はたまに聞いていたんですけれども、うまくはいかなかったんだろうなという印象ではありました。健康食品とかも結局は駄目で。

山下:商品開発では、エターナルアース(Eternal earth)なんかもやらせてもらったんだけど中島弘晶社長に名前を付けて下さいと言ったら2、3候補を出されて結局「エターナルアースがいい」と言うのでその名前を付けたわけです。それで商品化して、静岡の蒲原さんのところ(エターナルアース)とタイアップした。もう一つは富士川建材という会社ともタイアップして。2社とタイアップして商品を作った。でも、やっぱり売れなかった。

――それは自社ブランドの「TERRA(テラ・天然塗り壁用」と「ソフトしっくい(内装)」と「EXテリア(外装)」。山下さんが作ったんでしょう。

山下:「ソフトしっくい」は僕が作って、もう一つ富士川建材で作ったのは「ゼオシラス」というのがあってその二つを。あとは蒲原さんと作ったんです。

金属からプラスチックの時代へ

――川西さん、お願いします。

川西武統氏

川西:私は昭和49年10月の途中入社で、当時は広島支店に配属されました。2年目(昭和50年)に弱小球団の広島カープが初優勝したことで、もう涙が出るわ出るわ。あのうれしさは何物にも代えがたいものでした。それでその次の年の1月に、当時の東広島出張所に行けということで転勤になりました。 それで3年目くらいに、「今期からお前は所長をやれ」ということになったのですが、当時はまだ25歳で、月間売上は300万円いくかどうかぐらいでした。全て手作業でやっていましたが、単価表という物がありました。その時の印象は、自動車板金のお客さんが多くて、1件あたりの売上いうのは非常に小さなものです。計算機でこのお客さんは25%掛けろとか、こっちの会社は30%というぐあいの指示が単価表で決まっていて、お客さんごとにパーセンテージを入れていくわけですが、当時の計算機には、小数点以下2桁くらいで四捨五入するという機能はなかったので、自分の頭の中で切り上げたり切り捨てたりしていたんです。どこからも文句もないし、こんなものでいいんだろうと思ってずっとやっていたんですが、ある時お客さまから、同じ物を4、5日のうちに2回注文されていて、一つは切り下げて、一つは切り上げていたんです。それで「ちょっと来い」と電話で呼ばれていってみたら、「同じ商品で金額が違っいるぞ、おかしいだろう」と言われるんです。それはただ1円2円の話だったのですが、確かに二つは異なっていました。「これはおかしいだろう。今までの売上伝票を全部見せろ」という話になってしまいました。ひたすら、とにかくごめんなさいと謝って、「実は今まではこういう方法でやっていたので、今後は単価表をきちんと作りますから」ということで、初めて15%のお客さま、20%のお客さまというふうにお客さま毎の単価表を作りました。悪い事をしなかったらいいと、そんな感じでした。今で思えば当然のことが、当時は初めて自分で経験でした。これは内勤時代のことです。 そうしているうちに先輩が一人辞めて、営業職が足りなくなり、営業に行くことになりました。営業所は当時で300万円位の月商で、100万円くらいの「大協」というお客さまがあった。そこへ毎日行けということで、全くの素人でしたが、行っている間に現場の責任者と仲良くなって、いろいろ話をしていたら、何かの機会に、むこうの製造部の部長さんが来て、いろいろ語り始められたのです。「自動車はな、今後軽量化やらいろいろとデザインなど変わって……」という具合で、日ごろ聞いていない話題がどんどん出てくるのです。そして「これからはプラスチックの時代になるよ」と説明され、そういうもんかと思いました。

取りあえず見積もりだけでも

自動車の部品はほとんど金属が当たり前でした。その金属の塗料は、基本的にサビを防止するために「電着塗料」というものを使っていて、そういう大きなお客さまが全部、別の販売会社にもって行かれたんです。協力工場にそういう塗装設備があって、塗料はそこで使われていたのです。そして、同じ協力工場の中でも、プラスチックの内装部品を作っている会社を僕が担当することになりました。「これからの世の中はプラスチックになっていくんだ」と聞かされながら、現実とはギャップのある時代がしばらくの間続きました。確かに一つずつ部品が増えていくのを目の当たりにしていました。さび止めといった用途での金属の塗料が大多数でしたから、プラスチックの塗装というのは非常にマイナーだったのです。だから、塗って付けばいいくらいの市場規模だったんです。

川西武統氏2

それから、国内で初めてppで成形してバンパーを作ることになり、それを受注することになったと聞かされ、当時から付き合いのあった「中国プラント」という会社が近くにあり相談したら、「ハンガーに掛けて塗ればいいからこれなら簡単だし、2,000万くらいでできる」と言われました。それで私も喜んでこれくらいでできるとその部長に話したら、「こんなものならゴミも作くれないわ」とボロクソに言われました。それでも不思議にかわいがってもらって、「他の人が既に図面を書いたものがあるので、取りあえず見積もりだけでもしてみろ」と言ってくれて、仕様書から図面など全部を預かってまた中国プラントに行って見せると、「これはすごい」ということで本気で設計してくれて見積もりを出してくれました。 当時の最初の見積もりは2億くらいでしたが、それを持っていったら「これくらいは掛かるだろうな。でも、当然相見積もりになるけど、それでもお前の会社は参加するか?」と言われたので、「当たり前です。します」と二つ返事で答えました。そうして、再び1億6,000万円ぐらいで見積もりを出して、いろいろな交渉があり、最終的には1億4,000万までなら注文してもいいという雰囲気になったので、勝手に私が1,000万隠して中国プラントに「1億3,000万円でどうか」と話を持っていくと、「それは無理だ。1億4,000万ならなんとかなるかもしれん」と言われました。「それでいいけど、うちもいくらかほしいので。1000万くらいは」と私が言うと、「しょうがない、でも、900万で我慢してくれ」と言われて了解しました。 そういうことで受注できたのですが、当然それに伴う新規塗料需要があるわけで、当時関ペ(関西ペイント)も含めていろいろと競合がある中、日本ペイントから総力を挙げての応援を得て、「設備と塗料が一体でないと品質保証が出来ない」という言い方で押し通したのです。そうやって、正式に注文書を受け取ることが出来ました。そのコピーを、私は大事に取っておいています。それがきっかけになって、相当にプラスチック部品が増えていきました。

思わぬトラブル、クレームへの対応

川西:以後はプラスチック塗料需要が拡大していきました。途中もいろいろといきさつはあるのですが、当時大クレームが起きました。「リアフィニッシャー」という、ナンバープレートとボディの間にプラスチックの化粧パネルがあって、それに使用する特殊な条件下で溶剤を作ってくれというので作ったらものすごく良くて、その需要が高くなり、さらにそれが車に使用される部品にされてアメリカに入ったのです。船で車を運ぶのですが、船から車を降ろして並べてみると、ひび割れがたくさん入っているという一報が届きました。「一つや二つはまああるだろう」と思っていたら、毎日どんどん報告が入り、数が増えていきました。今日は500台と800台といった具合に。ついには1,000台にもなり、大クレームとなりました。 すぐに駆け付けることもできず、どうすることもできずにいたのですが、どうもそれは塗膜の中に溶剤が残っていて、太平洋を越えていく間に船の温度が50~55度くらいに上がって、それが再揮発したときにひび割れ(クラック)を起こした。そうなると、もう責任論です。今も日本ビー・ケミカル(NBC)と当社は太いパイプがあり、客先の技術陣とこちらとの間で大論戦となりました。いわゆる共同責任だからです。ほとんど裁判に近い状態になったのですが、結局はどこかで手を打たないと収まりが付かないので、向こうの責任者の方ともいろいろと話し合い、結局は「実費として保障する。ただし、賠償金は勘弁してくれ。実質相当額の物品をするから、それでチャラにしてくれ」ということで折り合いを付けました。お互いそれで手を打とうということになったのです。 これはそれで終わり、さらに発展的には、車種が増え、部材がもっと大きくなるということで、それらの需要がさらなる利益になりました。また塗料メーカーも「現場対応力に関しては、やはり中島商会さんでなければ駄目だ」ということで、別会社口座をうちに受けてくれということになり、NBCとしては中島商会一本で行くということで「良きパートナー」として、営業を含め対応組織体として認められたのです。 「どうにかしてよ」と拝み倒され それで永谷君も現地経験者ではあると思いますが、最後にFTA(北米)に依り、関税が掛からないということで、マツダがメキシコへ工場建設するので、ついては協力工場も併せて進出するということになりました。協力工場には、全面的にマツダのバックアップがあると聞いていましたが、我々に話が来たときには、「ダイキョーニシカワ」が工場を造ろうとされたときには、国内有力の塗装設備メーカーが手いっぱいの状態で、どこも受けてくれなかったのです。それで、中島商会さんはどうかなということになり、ローカルのことは全く白紙なので断ろうかどうしようかと悩みましたが、相手もとても困っていて「中島さん、どうにかしてよ」と半分拝み倒された所で、取りあえず見積もりを出しました。でも、我々も幾ら掛かるか分からないので、見積書には初めて「予備費」というのを加えました。これに納得してもらえないとうちでは請けられないということで、結果的にはそれなりの利益を確保することが出来ました。 例えばダクトの高さも、向こうでは30メートルくらい高く上げなくてはいけないとか、避雷針はどうするのかといった問題がたくさんあって、分からない中で不安と不明なプレッシャーを受けながら頑張りました。6億を超えた金額でしたら、大変な事になるかも知らないと思っていましたが、結果的にはなんとかなりました。その時には、永谷君にも現地対応で苦労をさせましたが、今思えば、パンパーの塗装設備受注から始まり、中島商会で自分は40年仕事した中で、本当に非常に印象に残る思い出であったなと思っています。

営業本部長の苦悩!?

――営業本部長時代の思い出に残っている事というのは、何かありますか。

川西:多々ありますが、一番は、当時専務だった弘晶社長と一緒に中島商会の全拠点を回らせていただいた時に、主だった拠点を18カ所くらい回りました。行ってすぐに次に向かえば別ですが、行ったら1日かかるから、そうやっていたら1カ月はかかります。北海道でも飛行機が飛ぶ所はいいのですが、函館だったから、札幌に飛んでから函館に行き、次は室蘭に行くとなった場合、車で行っても4、5時間掛かります。JRで行っても、乗ってからやはりかなり時間が掛かります。中島商会の支店網はすごいなと感じました。 さらに、岡山本社ということで、ここはこことして中枢として当たり前に機能しているのですが、やはり支店には方言があるように、行った所の土地の習慣に慣れないといけないし、業種にもよる。いい意味で言えば、非常に力があるわけですが、悪く言えば、何かあったときには同時進行できないという悪い面もある。だから、中島上海を開こうという話が社長からあったとき、すぐに商品の販売網をすぐに割って入ることは難しいから、まず商会の調達拠点としようということにした。そうすると、何がいくら売れているかという商品別の分類がないのです。やって見るとまさしくそうだったのです。例えば、この商品はこれだけの缶数売れているから、こういう利益率で行けばこれだけの利益が出るという当たり前のことができてなくて、たくさんいろいろと売ってとにかく頑張ってはいるけれども、この商品をこれと替えたら利益率の差から粗利がこれだけになるというものがないわけです。そこはやはり問題だなと思いました。 本部長という立場でいろいろなメーカーとの会合に出ると、やはり企業としてのみなし方を向こうがしてくれるので、それは心地良くて、更に頑張らなくてはいけないなという感じがありました。そこをなんとかうまくやっていくようにしたいということで、当時は事業部制を取っていましたから、事業部長の号令の下にやってほしいということで、NNCという新会社が出来て、そこの副社長を拝命しましたので、そこは反省と共に、自分の力不足もあったなと思っています。歴史ある中島商会の役員という肩書きをいただいた時には、さすがに重いものがのしかかりました。やはりそれはその立場に立った者にしか分からないうれしさと重さというものを経験できたことが、今では良い思い出になっています。

新幹線に一斗缶を積み込んで

松本:福岡から福山に転勤(昭和56年~)してから本当に苦戦の日々がありましたね。 川西君はプラスチック向け塗料、設備については何歩も技術面で進んでおり何かあってもフオローが出来ていましたが、私はまったく解らない状態で三菱向けのバンパーライン、マツダ向けルーフモールの塗装設備を受注しました。残念ながらルーフモール塗料以外は他社ルートでした。設備はロボット塗装ですべて自動、億単位が魅力で受注へ向け頑張った訳ですが、ラインの稼動と同時に、数々の塗装トラブル、設備トラブル。助けてもらったのが川西君でしたね。

山下義隆氏

――夜な夜な新幹線に一斗缶を積んで行ったとかいう話も聞いたことがありますし、乾燥炉の横で暖かいから寝ていたという話も聞いていて、たぶん相当苦労されていますよね。

松本:電着もトラブルはありますが、プラスチックのトラブルというのは塗料のトラブルと設備のトラブルとダブルでくるから、その管理というのは大変なことだったと思いますね。

――今は新幹線に塗料を持ち込んでは乗らせてもらえないですよね。

松本:そうですね。新幹線に4キロ缶をいっぱい積んで。

川西:それこそテロ犯で捕まる。

松本:4キロ缶を土産袋に入れて、隠して新幹線に乗るというのは福山でもやったことはありますがね。プラスチックの世界というのは、本当に経験した者は一番良く分かりますけど、一番難しいですね。

川西:緊急輸送で、工場は枚方なんで、そうすると当時はいわゆる「赤帽」の軽トラックで、そして更に緊急になるとタクシーとか。費用をどちらが持つか事前に打ち合わせして、「これはオタクの支払いだ」となれば、塗料が仮に1缶2万だとすると、タクシー代が6万かかろうとも、こちらは供給しないといけないわけだから。ひどいときには、一晩に赤帽が3便くらい2時間間隔くらいでやって来るわけで、そうすると荷受けする側は、昼間は仕事をして、今向こうの工場を出発したから、こちらには2時頃に着くとなれば、2時まで荷受けのために待っていなくてはいけない。そしてさらに2時間くらい待って4時か。さらに3便が着くのは6時か。そういう細切れの荷受けのために泊まったりしていた。 そうして、それでもそれでは時間的に合わないというときには、正式に「赤帽新幹線」というのが出来て、これがまた1便、2便とあって。要するに1缶なり2缶なりを特別のキャリーバックにいれて、ホームを転がすんです。そういうのができて、「今1便出しましたから、あと3時間くらいで着きます」ということで、本当に3時間くらいで届きます。「また、次の赤帽新幹線出します」ということをやっていましたね。

「よくさびる」というイメージを刷新

――では、最後に松本さんお願いします。

松本:私の中島入社は、中島をご存知の方から、地元の人で塗料と車の販売で大成功された会社と説明受けました。決め手は、高卒後地元企業に就職しましたが、私の描いていた内容と大きな違いで一年目に辞めました。 もう一つは、都会に出たい夢もありましたけどね。 中島の塗料だ、塗つた物は必ず錆る、変色、剥離他、永遠に繰り返され必ず必要だ、地味だが消耗品的な要素があり外れがない。決めたキーでした。

入社数年後、東洋工業協力工場を担当、楽しい事、苦しい事を経験しました。 東洋工業は、トラックライン、乗用車ラインの2ライン、生産台数も年々増加で協力工場も生産UP、また新たな協力工場も多々進出し対応の日々でした。当事、マツダの車は良く錆びると良く云われていましたね。マツダ車だけではなったのですがね。フェンダーの合わせ目等、あちこち穴が有るのも普通でしたね。今では考えられませんが。

山下義隆氏

数年後、下塗りに電着塗料(昭和39年~)の採用、またプラスチック素材も多くなり、まったく錆びの心配はまったく無くなりましたがね。 当事、錆対策になったのがマツダ、NPの課題で、我々も協力工場への指導が仕事でした。ボデイはマツダ工場、部品は協力工場、特に鉄板と鉄板の接着面は錆びクレームが多く、塗装仕様、ラッカーシンナー脱脂、ラッカープライマーで、プライマー剥離の連続で日々クレーム対応でしたね。鉄板の脱脂不十分がすべて要因でしたが、この繰り返し対応の日々。 下塗りが、ラッカープライマーから一部ジンキー塗料(ジンキー2000)に変更されましたが、シンナー脱脂は課題でした。油で汚れたシンナーでふき取り、また浸漬手作業ですから素材に油残りが毎回の剥離要因でした。暫くして、脱脂剤に薬品処理剤が紹介され、商品名ジュリジン210B、脱脂と皮膜処理が出来る優れものでしたね。NPから各工場へ進めてくれと指導受けました。しかし、それなりの設備が必要で工場は費用も掛かりましたが、剥離の解決になり各協力工場も採用頂きました。 当事の山本鋼材、三浦鉄工、広島プレス、蔵田金属他、協力工場に薬品、設備を紹介、この時期少し設備を学びましたね。 尚、苦戦したのが、色違いでした。協力工場で一部外板部品のボデイ色塗装が始まり、マツダ生産のボデーと色違いが度々でこれも苦労しました。マツダの塗装技術「検査」と、NPとの見解争いが日々あり、 当時は色差計なんて有りませんから、マツダ塗装検査員の見た目判断でOK、NGがきまりますからね。NP、中島もこの人達を大事にしていましたね。公私共、懐かしい時代でしたね。

船舶塗料受注の功罪

松本:広島支店を経験、 福山営業所長(S40年)として転勤を命じられました。初めての店舗所長、店舗が守れるのか大変不安でしたが頑張ろうと心の底に思いましたね。 国道2号線沿いの狭い場所に、倉庫も無い狭い場所が福山事務所兼私の住まい3~4畳でしたね。私は独身で若く、初めての所長、特に特定のお客も無くその為売上げも安定せず、店舗を守るのは大変で不安いっぱいでしたね。 その時広島から連れて行ったのが吉原君でした。元気で広島での活発だった事が指名理由ですね。大本さんが誰でも良いから連れて行け、の言葉で指名し一緒に頑張りましたね。店舗長は初めて、先ず私の顔を覚えてもらうとユーザー訪問をしつこいまで重ねましたね。早朝、夜間、も当然の日課ですが今は懐かしく思っています。 瀬戸内は中小の造船所が多く船舶塗料を福山、尾道の船具店に販売しておりました。特に、大本さんが中島入社前、尾道、中国ペイント(船用塗料メーカー)の営業先が結構あり、助けてもらった事も優位が有り、売上げ一つの柱になりましたね。船主への営業活動、造船所への売り込み、船主営業は持ち船500t~1万tが定期ドック入りの時100万~500万の塗料需要、この件数をいかに増やすかの戦いでしたね。 一杯船主の社長は皆、特徴ある(難しい)人が多く、付き合いには苦労しましたよ。現在、今治造船(国内一番)になっていますが、三原の造船所、幸陽ドックの開拓、大変苦労の連続でしたが、吉原君の頑張り船主へのPR活動で取引関係出来、船一隻分の塗料収める事も成功、喜びの日々でしたね。一時期、船関係で売上げも大幅拡大し福山の大きな売上げの柱になった時期も継続しましたが、何隻か継続する中で、余った塗料の返品ルールから長期ストックが発生しこの解決には苦労の日々でした。 この様な事では、何しているかわからない。返品塗料が再使用されなければデッドストックが発生し赤字は避けられない。他社もこのルールで取引継続していましたが、我々が持ち得ないノウハウを持っていたのでしょう、中島は大きなデッドストックを抱え解決に苦労の日々でしたね。数年、吉原君と船関係頑張りましたが、結局中島の財産に成りえず苦い経験しただけで止めました。 後にデッドストック処理に苦労の日々でした。当時、日本経済成長時期、福山、倉敷地区での石油コンビナート、製鉄所設備の建設が大々的に進んでいました。福山は日本鋼管の工場建設、住居建設、等設備投資拡大時期で塗料需要も旺盛だったと思います。工場建屋、設備、ガスタンク、動力配管、天井クレン、高炉、NKK社宅、他、当事日本鋼管とは何一つ接点も無く、NKK建設本部へ飛び込みしましたね。巨大企業相手でまったく自己流ですね。先ず自分自身を売り込み狙いで訪問の繰り返し日々でした。 丁度、島根県大田出身の方が建設本部に居られ、アドバイスを数々頂いた事もあり、非常に力になりましたね。有りがかったですね。この経験が、数年先のNKK外面パイプコーテイング獲得への道に繋がった事だと思っております。

中島勉会長

会長:それで、日塗の役員になった。そのくらい信頼されたんだ(笑)。

松本:会長からそのお話を聞いて……「定款を見たら、松本君の名前が載っていたぞ」と。「これはどういうことなんか」と会長から怒られて。ちょっとそういうエピソードもあったんですが、そのくらい日塗とべったりだったということです。それなりに人脈と、取引にいたる基礎をつくったという事ですね。実は定款の件、私もまったく知らなかった事で、驚きでしたね。日塗には確認しておりませんがね。 福山で結婚、新築した支店2F生活でしたが、 暫くして(昭和46年)水島にいってくれと話があり、今度は福山から近藤君を水島に連れて行きました。水島は、福山と良く似たユーザーが多かっただけにあまり抵抗感無かったと思いますね。川崎製鉄の建設、コンビナート設備の建設向け塗料、また川鉄鋼板、鋼管ドラムはすでに取引関係にあり、売上げは福山に比較し安定していたと思いましたね。後に川鉄厚板工場も稼動、造船向けショッププライマーが安定売上げで助かりましたね。 製鉄所建設塗料は、福山の日本鋼管よりNPのウエートが高く福山で苦労した私は助かりましたね。ゼネコンも清水建設のウエートが大きかったのも大きな理由の一つ、塗装は長崎さん、自然に塗料は中島ルートになっていたと思いますね。本社の水島担当山口部長でしたが、川鉄の建設本部、清水建設、長崎塗装への訪問は良く出向きましたね。 日本鋼管は、資本関係三菱系で、ゼネコンは鹿島建設、大成建設主体で、塗料はDNTがダントツで本当に入り込むのに苦労したからね。 水島のもう一つの柱、柏原さんです。付き合いは当事マージャンが定番で徹底して所長 社員とのお付き合いをしましたね。平日で雨が降ったら仕事できませんからね。必ず電話があり、事務所に呼ばれ付き合いマージャンで、渋々行っていましたね。中島の水島事務所もたびたび場に成り大変でした。付き合いは仕事、私の人間性でもあったんで本当に徹底して付き合いましたね。

――常にてるてる坊主を逆向きに下げていたりして(笑)。

松本:付き合う以上元を取らないとに強く思いはじめ、本当に元を取りましたね。当事の柏原水島の売上を三菱石油を除き全部中島が取りましたからね。当事の旭化成、日鉱、日本合成、日本ゼオン、関東電化、三菱石油の現場所長との日々マージャン他の付き合いで、うちに注文頼みますよ、とこの場でお願いし、相手をうまく洗脳ですね。徹底しましたね。一時期柏原水島の売上げ大幅にUPしましたが、水島所長にしかられましたね。他の塗料屋に、KP、DNAに「少し分けてくれ」といわれ、渋々、仕方ないなと思い、小金額ならと渡した事もありましたが、本当に営業が一番楽し時期でしたね。 今、大型取引のJFE鋼板(川鉄鋼板)も当事上塗り塗料は関ペオンリーでNPは裏面用塗料だけで売上げも300~400万程度で付き合いは当事から頑張りましたね。鋼板に当事サッカー部がありメンバーに中島水島の社員を出しておりましたからね。関ペは出してなかったので有る程度評価あったとおもいます。 東洋工業の協力工場、倉敷化工、丸五ゴムの2社がありましたが、マツダ関係はある程度理解していましたので抵抗無く仕事は出来たと思います。売上げも安定し、今から更なる拡大へと思った時、福岡転勤ですね。 松本:1971(昭和49)年、福岡に転勤になりました。九州は当事、福岡、大分、鹿児島に拠点があり、中島大口ユーザー、大和ハウス九州工場がありましたね。

中島範久副会長

会長:今は鹿児島は閉鎖した。

松本:鹿児島大和ハウスは福岡が担当、中島鹿児島出長所を含め月1回の訪問。福岡空港早朝に発ちハウス鹿児島工場経由で鹿児島市内周りが定番でした。九州は広い、大変だなという記憶が今でも残っています。鹿児島は薩摩芋焼酎、出張の度に腹いっぱい美味しい焼酎、忘れられませんね。福岡は巨大商業都市、工業ユーザー無く汎用が主力、また同業者に関ペ(西井)、大日本(大日華)、NP(井上喜)が既に優良ユーザーとの取引関係にあり我々が入り込む隙間無く、福山、水島と違いで苦戦の日々でした。 先ず、新規ユーザー獲得しかない。この事をキーワードで数々飛び込み営業行いましたね。山陽新幹線博多車両基地に飛び込んだのもこの時期です。基地工場は広く事務所行くまでも大変苦労しましたが、ここに来ても駄目だ、何も話は進みませんよ、と云われ、国鉄九州管理局が門司にあるから先ず資材部で口座を取りなさいとアドバイス頂き、数年間戦いの始まりでした。博多から高速で1時間30分要しましたが、2年管理局通い、利社長にも当事岡山出身で運輸大臣(木村睦男)の名刺持参で訪問して頂きました。名刺には「私の友達です宜しく」と書かれていた事を今でも頭にあります。新幹線車両は数年に一度検査が有り(車検同様)その時に車輪、車両の塗り替えをする事が現場訪問で初めて知り、尚力が入りましたね。NPもこの情報は知って無く中島の情報で窓口が認知された訳です。年間取引、NPスーパーラックが年間約900万の取引でしたね、意外と少ないのは塗料大手メーカー3社当分分け故です。中島一社の脱脂剤が有りましたがね。口座獲得でNP品は中島が窓口に決定し直接取引しておりましたが、突然、私の次、拠点(福山) 転勤時に、窓口を小倉の販売店(中島経由)に渡した経緯があり、今は大きな財産を失ったと反省ばかりです。長い時間苦戦して獲得しただけに残念に今も思っています。当事、福岡から門司管理局まで、高速道で約90分、この時間と経費が判断材料だったと思います。 松本:確かに中島商会が歴史がある中で、その当時の僕らの青春時代というのは、「飛び込み営業」は絶対的なものだったんです。中島商会は発展途上でしたから。決まったお客さまというのはないから、新しいお客さまを獲得しないと、中島商会そのものが大きくなれる一つの土台が作れないというのがその当時だった。ですから、どんな大きな会社でも行った、というのがあります。

――社長の方から、3人さんに何か思い出とか印象に残っていることは?

中島弘晶社長

中島弘晶社長:僕が中島商会に入った時は日本の景気が本当に悪くて、バルブは崩壊して10年後くらいでしたかね。一番しんどかった時期ですね。建築もダメ、自動車もダメ、そういう時代でした。そういった状況下ではありましたが、東日本事業部・中日本事業部・中四国事業部・九州事業部、住宅事業部、その事業部長を今でも尊敬するというか。いい意味で、それなりにみんなライバルであった。乗り越えたという部分を持っている。

松本:本当に苦しみましたね。弘晶社長からいろいろと新しいアイデアをいただいて、頑張りましたね。

社長:本当にお金がなかったからね。お金がない時ほどつらいものはなかった。銀行からの評価も最悪だったし。日中仕事をして、アフターファイブの時にいろいろと中島商会の社風というか文化というか、そういうのを教えてもらった。

松本:本当にいろいろと教えていただきましたね。僕はここの役員会議室で、期の初めとかおわりに、営業というのはまずはやはり数字でしょう。最終的に勉社長に報告しなきゃいけない。今期のツメはどうかというときに、決算の報告と、その中でも数字なんです。その事に関し神経を使ってやってきたわけですが、それは当たり前のことです。 でも、その中で一番つらかったのは、勉社長に報告する時、満足する数字で報告できるのであれば大出を振って言えるわけですが、そうじゃないことが多く、数字をまとめる立場として大変苦しい時代が続きました。今もよく記憶に残っています。

創業者の急逝、その時……

――この70年で一番大きな転機は、初代オーナーが亡くなられた時だと思うのですが、皆さんはその時はどういう受け止め方をされたのでしょうか。

松本:自分は当時大阪支店に勤務していましたが、ある日突然訃報が入って、「これは大変だ」ということで岡山本社に帰ってきた記憶があります。その後に、いまの勉会長が社長になられ、新体制づくりができました。勉会長はいろいろとご苦労されたんだと思いますが、僕は何とか頑張らなければいけないなという思いでした。当時我々まで事前情報が入っていなくて、本当になぜなのかと思いましたね。

――お二人はどんな感じに受け止めておられたんですか。

山下:私も利社長が出られた最後の会議のには出席はさせてもらっていたんです。その時に、30年ぶりくらいに風邪を引いたんだというような話をされて、その後1回もお目にかかれずに、亡くなられたと思います。まだ全体的な視野はまだなかったので、自分としては会社がどうなるかという意識まではなかったのが実情だったと思います。

――川西さんはどうですか。

川西:率直な気持ちをお話しすると、僕も山下君と同じように、受け持ちのテリトリーというか立場の中で事業部長を拝命していて、事業部長としてこの状況の中で何が出来るかなと考えて。当然、やるべき事は何なのかは改めて考えはしましたが。当然、当時から普通のこととしてその事は考えていましたが、その中でこの場に及んでどうするべきか、そこを自分としては明確にしておきたいと。 そして勉会長が社長の立場になられたので、このまま何とか頑張ればいいのかなという思いでしたね。それ以上は何も。気持ちとしては、中間管理職という立場でありながら、雰囲気的には自分としてはすごく居心地のいい職場だったし、仕事的にもそうでした。だから、何とかこのまま行けばいいなと思っていました。

チャレンジ精神を持ち続け100年へ

――最後に、70周年を迎え、今後の中島商会や社員への期待など、メッセージを一言ずつお願いします。

山下:社風としては、いろいろなチャレンジを応援してもらえるという面では、社員のやる気をそぐことの全くない社風ですから、やりたいことをどんどんやりなさい。そういうことを応援してくれる会社なので、とにかくチャレンジ精神を持ってやってもらいたいと思いです。 川西:僕は退職の時のあいさつにも言ったことなんですが、やはりどうあっても中島商会手の最大の財産は“人(人間)”だと思っています。社員のレベルも含めて“人間”だと思っています。そのためには、やはり現在管理職に付いている店舗長だったり部課長さんだったりという人は、その中でそれなりに能力・機能を持って職務を果たされ、経営層として、会長や所長をはじめ、認識をされている方だと思っています。そういった人たちが30名前後おられると思いますが、何かしようとするときに、中島商会の規模になれば、どうしても30人では日常的に目いっぱいかなと思うのです。世代もつながっていくときに、それくらいの立場の人がせめてもう片方として一つずつ増えて欲しいと思っています。そのために、人を育てて欲しいなと思います。

――ありがとうございます。では、松本さん。

松本:川西君からいろいろとお話が出ましたが、今年70周年を迎えられ、次なる100年に向かわれる訳ですね。今現代も素晴らしく魅力ある会社に成長されたと思いますが、更なるブランド企業を目指して頂きたいと思います。 企業の顔は企業が持っているお客様だと、私は昔から思っています。今も、弘晶社長は先頭に立たれ社員を引っ張り新たな顔を目指しておられ、更なるブランド企業に成長されるものと、OBとして期待しております。

川西:一言だけ付け加えさせていただきたいのですが、過去に努力されて、財産となるべき口座とか、あの時持っていた口座が今はないとかいうときに、もしその場でそこに適材適所の者が居れば、多分つながっていてもっと発展していたと思うのです。そういう意味において、人材を(育てなさいよ)と。すみませんね、まさしく松本さんが言われたことと同じですよということを伝えたかったのです。

――3時間と言いながら、3時間半を過ぎてしまいました。長い時間をお付き合いいただき、皆さんありがとうございました。 (座談会実施日:2019年6月24日 本社会議室において)