プロローグ 創業前夜

~昭和21年(1946)まで

若くして商才に長けた創業者・中島利

創業者 中島利

創業者 中島利

株式会社中島商会は、昭和22年(1947)、創業者であり初代社長の中島利(さとり)が岡山市で塗料販売業を興したことからスタートする。 中島利は、大正4年(1915)4月10日、島根県益田市川登に生まれた。父は八左衛門、母はトミ、三人兄弟の真ん中である。

島根県西部にある益田市は、日本海に面した町だが、中島の家は、山口県境にも近い中国山地の山間にあった。村の大方の家は農林業で生計をたてていた。利の家も例外ではなく、1町5反(約1万4876平方メートル)の田畑と十数町の山林をもっていたという。山を開墾した棚田の勾配のきつい坂を、重い荷物を持っての上り下りを、子どもたちも手伝っていた。

成績の良かった利は、教師から中学への進学を勧められたが、親に苦労をかけられぬと進学を諦め、父母を助け家業に精を出した。

ある日、近所の人からこんな話が持ちかけられる。

「わしの知り合いが下関で塗料の販売会社をしている。利さんは利口な子や。利さん下関に働きに出す気はないかねえ」 この話がきっかけとなり、村から150キロも離れた下関市の京野商会に職を得ることとなった。商港、漁業のまちとして栄えた下関市は工業地帯としても発展し、活気のある町だった。見るもの聞くもの珍しいことばかり。町の賑わいに利は驚いたという。 塗料の知識、営業の心得は京野商会の社長が一から仕込んでくれた。飲み込みの早い利を、社長は喜んで育てたようだ。

その社長の勧めで学校に通うことになった。下関商工実践高校(現在の県立下関中央工業高等学校)である。昼間は塗料店の仕事、夜は学校へ。ここで働き学んだことは、学問だけでは学べぬ現実を教えられ、実践だけでは学べぬ体系的な意味づけを身につけた。卒業後は立派な商社マンに成長していた。

塗料販売会社の一線で販路拡大に励んだ利に大きな舞台が与えられた。広島地区進出に伴う広島支店長のポストである。さらに岡山地区進出が続き、その支店長も任されることになった。

空白地区の支店開設は、ゼロからの出発。顔と名前を覚えてもらうために鉄工所などを何度も訪問した。「若いのに熱心だから、少しだけど注文しよう」こうして顧客開拓を進め、少しずつ軌道に乗ってきた。

「苦労した分、必ず仕事につながる。こんなおもしろい仕事はない」 20代半ばの利は、仕事に全精力を傾けた。 仕事と勉学の両立を果たし、若くして広島、岡山の責任者を任されたことからも、利の実務能力の高さ、勤勉さ、信頼の厚さがうかがえる。

日本の塗料の歴史

西洋式塗料が日本人の手で最初に塗装されたのは、幕末開国のころといわれている。明治新政府は、欧米先進国に追いつくために殖産興業政策を展開し、官営工場を中心に機械設備や製造技術の導入を進めて近代産業の育成に努めた。

社会に文明開化の風潮が高まる中、明治5年(1872)、わが国最初の鉄道が新橋̶横浜間に開通し、その際、両駅舎にはペンキ塗装が施されたという。そのころ、西洋建築も盛んになり、ニコライ堂や鹿鳴館など有名な建物もこうした西洋式の塗装が使われている。

明治7年(1874)、東京開成学校(東京大学の前身)でドイツ人のワグネル博士から指導を受けた茂木春太が、弟の重次郎とともに顔料・塗料の製造について研究を進めた。その後、塗料の国産化を切望する海軍の強力な支援を受け、明治14年(1881)に光明社が設立された。光明社は、後の日本ペイント(株)である。

光明社は、東京・芝に工場を建て、亜鉛華・鉛丹・ボイル油・堅練ペイントなどの製造に着手し、ここにわが国の塗料工業が発足することになる。

その後、日清、日露の両戦争を経て、官営軍事工業とともに民間諸産業も発展し、塗料需要も増大したため、塗料の製造を始める者が次々と現れてくるようになった。

明治20年代には、大阪で阿部ペイント製造所(明治21年・のちの大日本塗料)、高田商会(のちの日本油脂)、川上塗料製造所(明治43年・のちの川上塗料)などが創業した。

明治36年(1903)には、日本ペイントが大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会に塗料・塗料用顔料を出品し、1等賞を受賞した。(註)

徴用

岡山で京野商会の所長として腕を振るっていた中島利のもとに、軍から召集の知らせがきた。戦争当時の資料がないので、詳しいことはわからないが、台湾で衛生兵として従軍していたという。

昭和20年(1945)年、米軍は沖縄本島に上陸し、国内の各都市は空襲により廃墟となった。8月6日には、広島へ史上初めて原子爆弾が投下され、9日には長崎にも投下された。昭和20年8月15日、日本は無条件降伏した。

満州事変から太平洋戦争にいたるいわゆる15年戦争は、日本の壊滅的な敗北によって終結したのである。

利が再び日本の地を踏んだのは、終戦後の昭和21年(1946)である。戦地から生き延びて帰った利は、いったん故郷の益田市に戻り、戦争による心の傷を癒やした。そして立ち直った利は、仕事への意欲を抑えることができなかった。

「岡山へ行こう。またあの町で頑張るのだ」

註:関西ペイント「明日を彩る 関西ペイント六十年の歩み」昭和54年5月/小林塗装ホームページ「塗料・塗装の歴史」